食べる事に関する不思議
おはようございます。
うめしんです。
前々から思っている不思議に思っている事をエントリします。
一般的に販売されている食品に関してです。
近年ではネットが普及しているので、様々な記事を目にします。
これに輪をかけてFacebookのようなメディアも出てきたので加速してるように思います。
例えばこんな感じ。
昔からかなり露出が多かったので、目にしている人も多いと思うんですが・・・。
その割に商品自体は無くならないですよね、何故か。
記事を読む→
買う事が自分にとってメリットがあるか考える
→買わなくなる
→でも買う
って考えると、知っている人も多いですが、それ以上にまだ知らない人が多いんですかね?(記事を目にしている人が少数派?)
幼少期から雑食だった小生としては、大人になるまで気づきがありませんでした。
別に食べる事だけでなく、無知が故に割と何でも普通に信用してました。
病院で貰う薬や売られている食品、営利団体としての企業体、あらゆる流行、など。
特に疑問も感じずに受け止めていました。
思春期から音楽が好きで、途中からは似非DJなんぞもやっていたので、海外の文化に触れる際に、ちょっとずつ色んな事がある事を肌で感じ始めました。
意外と海外のDJはベジタリアンが多いとか(特に欧州)、喫煙を好まないとか。
そんな事を知っていく中で、今のパートナー(妻)との出会いが様々な気づきを与えてくれるきっかけになっています。
基本的に動物性たんぱく質を取らない人なので、結婚する前にデートで食事に行く時なんかは最初は不便にも思えました。
ですが、私は食べない、というだけで、別に小生には求めることも無く、合理的に小皿料理とか、共存できる飲食店に通ってましたね。
例えばですが、こんなところ。
愛知県に住んでいる人なら、もちろん有名店なのですが。
あの吉田類さんも番組取材で来店した店のようで、お客さんは関東からの出張帰りの人も結構いらっしゃいます。
話しが逸れてますね、すみません。
- 添加物の入った食品を避ける
- 精白された食品を避ける
- 自分が食べるものは自分で選ぶ
というような事だと思うのですが、この考え方自体が「贅沢」にも思えるんです。
これが小生の思う「不思議」な部分です。
選ぶ→
選ぶための情報を知っている→
→知っているだけでなく、買う選択する
→多少の経済的余裕が必要(数の論理で言うマジョリティー)
かなって。
「避ける」、「選ぶ」って感覚が都市部の人の感覚にも思えるんです。
田舎に引っ越してきて改めてそう思います。
義務ではなく選択なので基本的には「権利」だと思っています。
何を選ぶにも意思決定は自分という事が多いと思います。
だから、そこには「責任」があるかと。
どちらが善し悪しでは無く、どちらを選択しても良いけど、強要はダメだなって。
自分でも何を書きたかったのか迷走してますが、
- 情報を得ようとする努力をする
- 自分の目線だけで情報を探さない(特にインターネット)
- 先人の教えも学ぶ
みたいな部分が必要かな、と思います。
近年は「飽食」なんて言われていますが、ある意味では「選択」した結果だと思います。
様々な人が「利便性」、「機能性」、「経済的価値」、「物質的価値」「希少性」、など色んな軸で捉えた結果かなと。
小生自身、健康になって改めて思います。
日々の食べ物が大切なんだと。
人に会ったり、お祭りのような「ハレの日」と日常との区別って言うか。
そんなニュアンスの食育で子供と接したいと思いますね。
ちなみに小生が好きな考え方の先生はこの方です。
考え方は勿論好きなのですが、読みやすく受け入れやすいように「見せ方」にも拘って書籍を作っています。
どうしても「玄米菜食」みたいな食事って言うのは、ビジュアルが同系色になってしまい、綺麗に見えにくいように思います。
その辺りを柔らかい表現に変えながらも「粗食」というキーワードでまとめてます。
今の季節ならこれですね。
もちろん我が家にあります。
春夏秋冬、全て揃っています。
この辺りを踏襲しながら、過食には気をつけたいと思います。
昔のように若くもないので、太らないように気をつけねば。
食育に力を入れている保育園に子供たちが通い出した事もあり、食べる文化というものを考えたいと思います。
ではでは。